2015年1月10日土曜日

日本古代王族の婚姻系譜⑤


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 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 出典:柿本一征(かきもとかずゆき)・言語復原史学会正会員

 ≪日本古代王族の婚姻系譜≫


 2.故国原王の妃、備前車塚古墳周辺古墳披葬者の推定

 美川王の后は周氏(石勒のこと)の娘で、

 息子が故国原王と弟の「武」である(高句麗本紀)。

 しかし、もう一人、娘がいたのではないかと想定すると、

 次の系図になる。

 「系図G'」

   7       8       9

 美川王 ∥ |故国原王∥ |小獣林(伊集院)王
 石勒の娘∥_   妃 ∥_|故国壌(隈之城)王
       |武
       |娘   ∥_|石川宿祢          ′
        武内宿祢∥

 備前車塚古墳が美川王の墓であることは

 前稿(「七支刀」)で推定(特定)したが、

 このG'系図に周辺古墳の名を加えると、次のようになる。

 なお、これらの周辺一群の古墳群が、

 備前車塚古墳の一族のものであることは、

 どの本を読んでも(著者名は略)承認されているようなので、

 なにも付け加える必要はないと思う。

 ただし、未発掘なのかどうか、

 発掘報告の記録を読んでいないので、

 副葬品、棺の方位は吟味していないし、

 古墳の方位や相互の位直関係は図表によって解るものの、

 何も吟味しておらず、

 ただ古墳の規模と古墳名を検討対象にするだけだから、

 きわめて浅薄な推定にすぎないことは認めなければならない。


 「系図G」 

   7          8        9

  美川王      |故国原王
 (備前車塚古墳)━|武(山王山古墳)━|神宮寺山古墳150m
   50m        70m    |金蔵山古墳 160m
          |娘   ∥  
           武内宿祢∥   _|石川宿祢
           (網浜茶臼山古墳)   (湊茶臼山)150m
             80(又は120)m



 このG系図を理解しやすくするために、

 もう少し周辺の系図を加えてふかん図を構築してみると、

 次のようになる。
   
 「系図H」
   4        5       ・6      7      8

 |大筒木垂根∥_|息長日子王∥_|千熊長彦━|真浄   ━ 武内宿祢
  管韓多羅 ∥  附志   ∥       |石虎   ━|15人の息子
                              |娘   ∥
         |虚空津姫  ━|石勒  ━|娘   ∥_|故国原王∥
         |息長帯姫                |武
          位宮   ∥_|咄固  ━|美川王 ∥ |娘   ∥  
                               武内宿祢∥
 |中日女   ━ 多婁王   ━ 己婁王 ━ 蓋婁王  ━ 玉彦姫
                              (姪岡陋姫)


 石虎の后は劉曜の娘である。

 晋書によると、15人の息子がいて、互いに殺し合ったり、

 石虎の死後の反乱で全滅したと書かれている

 (陳舜臣「中国の歴史(三)」講談社学術文庫)が、

 娘のことは出ていないようである

 (石虎に娘がいたという記録はない、ということになる)。

 「故国原王は335年には遼東の撫順市郊外に新城を築き、

 342年2月に鴨緑江中流の北に

 国内城(遼寧省集安県)を築いた。

 また8月には国内城近くの丸都城に遷都するなど、

 高句麗は『石虎をバックに』、

 じりじりと遼東に勢力を伸ばしてきていた…」

 とある(p118小林「4C」)。

 石虎と故国原王の同盟関係(婚姻関係でもある)が

 推察出来る部分である。

 H系図によれば、石虎の娘と故国原王は「またいとこ」になる。

 さて、「山王山古墳」「網浜茶臼山古墳」「湊茶臼山古墳」の

 古墳名について考察すると、

 山王=邪馬・王で、これはおよそ「スサノオ」の別称である。

 位宮は「山上王」である(邪馬のお上)

 (㊟鹿児島県隼人町の「高屋山上陵」が

  位宮の墓━加治木先生)、

 美川王墓のある「四御神」は

 「死の神(エンマ)」という意味がふくまれていた。

 H系図であきらかなように、

 美川王と「武」は位宮(スサノオ、邪馬、エンマ)の

 子孫(孫と曾孫)である。

 網浜は阿爾(兮)国(バ、ハ、マ)(阿爾王の国という意味)、

 湊は弥奴(ミナ)・投(ト=投馬)になる。

 H系図の玉彦姫の別名姪「岡陋姫」は

 「崗(遠賀)水門姫」の意味だから、

 ミナト=水門=遠賀でもある。

 H系図の武内宿祢の先祖を逆上ると菅韓多羅に至る。

 菅韓多羅B系図によると阿爾兮の娘であるから、

 彼ら(子孫)はだれ一人として例外なく、

 「阿爾兮(アミ・キ=アジ之岐)」ということになる。

 菅韓多羅の夫大筒木垂根「三野前(弥奴国)国造」

 であることは、

 もう少し別の系譜解明の部分で扱う方が便利なので、

 ここでは保留にする。

 その子孫の墓の名の中に

 「弥奴国投馬国、遠賀水門」の名乗りが含まれていて、

 それが美川王の墓の周辺にあるということは、
 美川王

 ━その娘(その夫武内宿祢)━石川宿祢の系譜の

 蓋然性を強めるのである。

 故国原王と五十琴(近肖古王)、
 
 伊呂弗(仲哀天皇)との間には、

 互いに攻略しあう因果関係がある。

 大筒木垂根の妹(の一人)は時姫であるから、

 両者の子孫系簿を並立させて眺めてみる。

 「系図I」

   4       5     6    7    8    9    

 |大筒木垂根━息長帯姫∥_|咄固 ━美川王━故国原王━小獣林王
        位宮  ∥ 
 |時姫   ━汾西   ━ 胆咋 ━五十琴━伊呂弗∥ |真椋(枕=枕崎)
                      |玉彦姫∥_|布都久留
                      |多遅麻

 この図の

 五十琴=近肖古王、

 伊呂弗=仲哀天皇、

 玉彦姫=神功皇后、

 布都久留=応神天皇、

 多遅麻=近仇首王(武内宿祢)


 として、このあたりの略年表を見つめてみる。


 350年:かって石虎の配下だった麻秋が符洪(胆咋)を暗殺。

 354年:五十跡手(故国原王)が仲哀天皇(伊呂弗)に降伏する

      (伊呂弗には、当時全盛だった慕容儁が

       バックにいた)。

 362年:仲哀天皇が筑紫(北九州のどこか)で遭難(戦死)

      =その相手は故国原王

      (この戦争は「肥後国風土記姫杜郷条」で推定できる)。

 371年:南九州で近肖古王(五十琴)と王子

      (実は多遅麻=近仇首王)が故国原王を戦死さす。

 ふつう(?)、息子が親の仇を討つのであるが、

 この371年の場合は親が息子の仇を

 討ったという形(?)になっている(なお、親の仇《かたき》、

 子の仇討ちなどというのは劇画的な表現だが、

 因果応報の説明にはなっている)。

 Ⅰ系図の

  五十琴(近肖古王)、玉彦姫(神功鼻后)、

  布都久留(応神天皇)として、

 H系図の真浄、武内宿祢、石川宿祢を吟味してみると、

 次の記録の意味がみえてくる。

 1)百済本紀近肖古王条;真浄を「朝廷佐平」とし、

   国政をゆだねた。

 2)仲哀天皇9年(362年)2月;仲哀天皇が戦死して

   武内宿祢が葬儀をおこなう。

 3)神功皇后46(366)~52年(372年);久邸が往還。

 4)応神天皇3年(392年);石川宿祢(他)を遭わす。

 2、3、4の絶対年代は小林「4C」に従ったものである。

 まず3の「久邸(右のこざとのない文字)」と1の「朝廷」を

 比較すると、

 朝廷は宮廷と同じ意味になるから久=宮とすると、

 久邸はクティではなくキュウティで、

 結局「朝廷佐平」のことではないのか、ということになる。

 朝廷佐平とは朝廷を補佐する役割のことで、

 「朝廷ウチの朝臣アソミ」で、

 これが武内宿祢や主要な役目(属性)であることは、

 ほとんど定説化しているといえる

 (p359~岩波日本書紀二など参照)。

 ただし、この属性は記紀編纂時代(当時)の位置付け、

 百済本紀でいえば百済王朝側からの位置付けであって、

 当時の金官加羅国でいえば彼自身が金官加羅国王、

 朝廷そのものだったのである。

 定説化といえば

 「武内宿祢は『実在者ではない』というのが定説」

 とされているが、これは

 ① 年代を限定しない、

 ② 系譜上の位置を明らかにしない、

 ③ 名乗りとしての意味を解明しない、

 そういう人たち(学者、研究者)の言い分である。

 玉彦姫の兄の多遅麻も、別の系図では武内宿祢になっている。

 なお、Ⅰ系図をみる限りでは神功皇后(玉彦姫)は、なんと、

 「前百済」王妃(皇太子妃)だった、ということになるではないか。

 これは驚くべきことである。           

 系譜の中で、武内宿祢━石川宿祢の父子関係は

 確定しているから、

 4の石川宿祢はF系図の石川宿祢の可能性が高い

 (多遅麻の息子に、大別の他に印葉、伊予、小神がいて、

 これらの誰かが「石川宿祢」と表現されたという可能性も

 完璧に排除してしまうことは出来ない)。

 いずれにしても、

 ここでの推定のように

 網浜茶臼山(武内宿祢)、湊茶臼山(石川宿祢)の

 被葬者であるなら、

 間違いなく特定個人ということになる。

 百済本紀は1の真浄の属性として

 「性格がねじけていて…国民は彼を嫌った」

 という意味の表現をしている。

 これはあきらかに、

 晋書載記の「石虎の描写」を意識して対照させている、

 といえる。

 その中で、石虎は

 「尼僧を犯したり、

  美女の首を撥ねて皿に載せて眺めて楽しんだり、

  肉を刻んで羊の肉と混ぜて煮て食したり…」と、 

 身の毛のおだつような描写がされているが、

 これらの描写は

 インドのカーリー女神やエンマ大王の属性そのものであって、

 この時期の右虎たちが信奉した宗教に他ならない、

 ということである、と僕には思える。

 ともかく石虎と真浄の性格付けに対照が

 認められるということは、

 両者の近親関係(二人は実の兄弟)の強力な傍証になる。

 石勒はイソリクと読めるから、磯(城)と琉球という名乗り、

 石虎はイソトラと読めるから

 磯(城)投(ト)(馬)国(ラ)という名乗りが復原出来るだけでなく、

 前者はシャ(ロ)ク、後者はシャコであるから

 (掖)邪(シヤ)狗(ク)、(掖)邪(シャ)拘(コ)になって、

 余・邪拘、余・邪拘

 つまりギリシャ公(家長・族長)という意味だったのである。

 どちらも八坂王(=掖邪狗《拘》)の子孫であることは

 系図B、Hが示している。

 石勒も石虎も中国大陸で皇帝になったが、

 生粋の列島人だったのである。

 そんなことを、後の記紀編纂事業の最高責任者たちが、

 当時の中国(唐朝)の官吏たちにたやすく

 見破られてしまうような安易な(?)

 歴史書を記述編纂するわけがないし、

 今の(21世妃)中国政府でも、

 こんな歴史復原を認めない懸念が無しとはしない。

 逆に言えば言語復原の操作だけが、

 歴史の真相を解明するのである。

 掖邪狗(拘)は正しくは(?)

 「ヨーナ・ジャナ・公」で、このジャ「ナ」とジャ「ロ」は

 同じ「~の」という意味の助詞にあたる。

 この助詞はあってもなくても同じだから、

 石勒はジャナクのナがロに変化したもので、

 石虎のジャコはナ、ロの部分が省かれたものだと、

 音韻学的には説明がつく。

 「ソヤロ」「ソウジャロ」「ソヤナー」「ソウジャナー」「ソヤソヤ」

 という

 俗会話を持ち出すと、少しは理解の足しになるかもしれない。

 しかし、人の会話(発音)の場合はそうであるとしても、

 人の名として記録される場合には、

 勒には琉球(の支配者だった)、

 という名乗りも含まれたものであって、

 石虎も人為的に選択された当て字であることに

 気付く必要がある。

 この文字を教えたのは倭人(列島人)側であった、

 とだけは言えそうである。

 劉淵、劉聡、劉曜の場合も

 淵はフチ、フヂで葛(フジ)、百済(フジ)、聡は襲王(ソウ)、

 曜はヨース、余氏、尾久島の名乗りを持っていて、

 彼らの生地や故地、出身地を示している。

 曜の場合で言えば、

 哀邪本王の王子の妃は星久島で曜を生んだことになるから、

 屋久島と関わりのある女性だったのである。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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