2014年12月12日金曜日

第九代 伐休尼師今②


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 (原文)

 五年春二月、百濟来攻母山城。

       命波珍飡仇道、出兵拒之。

 六年秋七月、仇道與百濟、戦於狗壌勝之。

       殺獲五百餘級。

 七年秋八月、百済襲西境圓山郷、又進圍缶谷城。

       仇道率勁騎五百撃之。

       百濟兵佯走。

       仇道追及蛙山、為百濟所敗。

       王以仇道失策、貶為缶谷城主、以薛支為左軍主。

 八年秋九月、蚩尤旗見于角亢。

 九年春正月、拜國良爲阿、述明爲一吉。

  三月、京都雪、深三尺。 

  夏五月、大水、山崩十餘所。

 十年春正月甲寅朔、日有食之。

  三月、漢祇部女一産四男一女。

  六月、倭人大饑、来求食者千餘人。

 十三年春二月、重修宮室。

  三月、旱。

  夏四月、震宮南大樹、又震金城東門。

   王薨。


 (訳文)

 五年(188年)春二月、百済が母山城を攻撃して来た。

        波珍飡の仇道に命じて出兵させ、これを阻んだ。

 六年(189年)秋七月、仇道は百済と狗壌(忠北沃川郡内の狗川か?)

        で戦い、これに勝った。

        殺し獲得した者は五百余級にのぼる。

 七年(190年)秋八月、百済が西の国境の圓山郷を襲撃、

        また、缶谷城まで進入して包囲した。

        仇道は強兵五百騎を率いてこれを攻撃。

        百済兵は敗走するふりをした。

        仇道は蛙山まで追撃したが、百済に敗れた。

        王は仇道の失策に対して缶谷城主に左遷して、

        薛支を左軍主にした。

 八年(191年)秋九月、蚩尤旗(しゆうき)〔ほうき星〕が

       〔二十八宿〕の角(かく)と亢(こう)と〔のそばに〕

        に現れた。

 九年(192年)春正月、國良を阿飡とし、述明を一吉飡とした。 

  三月、王都に大雪が降り、三尺も積もった。 

  夏五月、大水が出て、山崩れが十餘ヵ所もあった。

 十年(193年)春正月甲寅の日に当たる朔、日食があった。

  三月、漢祇部の婦人が一度に四男一女を産んだ。

  六月、倭人は大飢饉に襲われ、食糧を求め〔新羅に〕千余人にも来た。

 十三年(196年)春二月、重ねて王宮を修築。

  三月、日照りが続いた。

  夏四月、宮殿の南の大樹に雷が落ちた。

   又、金城の東門に雷が落ちた。

   王が薨去した。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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