浦和レッズレディース
Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)
(原文)
五年春二月、百濟来攻母山城。
命波珍飡仇道、出兵拒之。
六年秋七月、仇道與百濟、戦於狗壌勝之。
殺獲五百餘級。
七年秋八月、百済襲西境圓山郷、又進圍缶谷城。
仇道率勁騎五百撃之。
百濟兵佯走。
仇道追及蛙山、為百濟所敗。
王以仇道失策、貶為缶谷城主、以薛支為左軍主。
八年秋九月、蚩尤旗見于角亢。
九年春正月、拜國良爲阿、述明爲一吉。
三月、京都雪、深三尺。
夏五月、大水、山崩十餘所。
十年春正月甲寅朔、日有食之。
三月、漢祇部女一産四男一女。
六月、倭人大饑、来求食者千餘人。
十三年春二月、重修宮室。
三月、旱。
夏四月、震宮南大樹、又震金城東門。
王薨。
(訳文)
五年(188年)春二月、百済が母山城を攻撃して来た。
波珍飡の仇道に命じて出兵させ、これを阻んだ。
六年(189年)秋七月、仇道は百済と狗壌(忠北沃川郡内の狗川か?)
で戦い、これに勝った。
殺し獲得した者は五百余級にのぼる。
七年(190年)秋八月、百済が西の国境の圓山郷を襲撃、
また、缶谷城まで進入して包囲した。
仇道は強兵五百騎を率いてこれを攻撃。
百済兵は敗走するふりをした。
仇道は蛙山まで追撃したが、百済に敗れた。
王は仇道の失策に対して缶谷城主に左遷して、
薛支を左軍主にした。
八年(191年)秋九月、蚩尤旗(しゆうき)〔ほうき星〕が
〔二十八宿〕の角(かく)と亢(こう)と〔のそばに〕
に現れた。
九年(192年)春正月、國良を阿飡とし、述明を一吉飡とした。
三月、王都に大雪が降り、三尺も積もった。
夏五月、大水が出て、山崩れが十餘ヵ所もあった。
十年(193年)春正月甲寅の日に当たる朔、日食があった。
三月、漢祇部の婦人が一度に四男一女を産んだ。
六月、倭人は大飢饉に襲われ、食糧を求め〔新羅に〕千余人にも来た。
十三年(196年)春二月、重ねて王宮を修築。
三月、日照りが続いた。
夏四月、宮殿の南の大樹に雷が落ちた。
又、金城の東門に雷が落ちた。
王が薨去した。
≪参考リンク≫
『古代史獺祭』
『三国史記』
『三国遺事』
『三国遺事』
『電子大藏經』
『倭・倭人関連の朝鮮文献』
『朝鮮の歴史』
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
0 件のコメント:
コメントを投稿