2014年12月10日水曜日

第九代 伐休尼師今①


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 第九代 伐休尼師今(在位184年-196年)

 (原文) 

 伐休(一作發暉)尼師今立。

 姓昔。脱解王子仇鄒角干之子也。

 母姓金氏。只珍内礼夫人。

 阿達羅薨、無子、國人立之。

 王占風雲、預知水旱及年之豊儉、又知人邪正。

 人謂之聖。

 二年春正月、親祀始祖廟、大赦。

  二月、拜波珍飡仇道、一吉飡仇須兮、為左右軍主。伐召文国。

     軍主之名始於此。

 三年春正月、巡幸州郡 觀察風俗。

  夏五月、壬辰晦 日有食之。

  秋七月、南新縣進嘉禾。

 四年春三月、下令州郡。無作土木之事 以奪農時。

  冬十月、北地大雪 深一丈。


 (訳文)

 伐休(分注。發暉(はつき)とも書く)尼師今(にしきん)が即位した。

 〔伐休尼師今は〕姓が昔(せき)氏で、脱解(だつかい)王の子、

 仇鄒角干(きゅうすうかくかん)の子である。

 王母は姓が金(きん)氏で、只珍内礼(しちんないれい)夫人という。

 阿達羅(あだつら)尼師今が薨去して子がなかったので、

 国人は伐休を擁立した。

 王は風雲を占って、あらかじめ水害、旱魃、

 その年の豊穣凶作を予知でき、

 また、人の正邪を見抜いた。

 人々は伐休を聖人だと言った。

  二年(185年)春正月、王自ら始祖廟を祭祀し、大赦を行った。

   二月、波珍飡の仇道と一吉飡の仇須兮とを左右の軍主として、

      召文(しょうもん)国(慶北義城郡義城邑)を討伐させた。

      軍主の名はここから始まる。

  三年(186年)春正月、〔王は諸〕州・郡を行幸して、

      各地の〕風俗をよく観察した。

   夏五月、壬申の日にあたる晦日、日食が起こった。

   秋七月、南新縣がめでたい穀物を献上した。

  四年(187年)春三月、〔全国の〕州・郡に

      〔次のような〕命令を下した。

      農繁期に〔農民を〕土木工事に使わないようにしなさい。

   冬十月、北部の地方では、大雪が降り、深さ一丈にもなった。


 ≪参考リンク≫

 『古代史獺祭
 『三国史記
 『三国遺事
 『三国遺事
 『電子大藏經
 『倭・倭人関連の朝鮮文献
 『朝鮮の歴史

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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